翌朝、地理の授業がはじまっても、しずみはぼうっとしていた。
王子のしずみは、他の子どもたちといっしょになって学校で学ぶわけではなかった。しずみは一対一で、教育係の何人かの先生から、いくつもの科目を教わっていた。その中でも一番親しい先生が、今、地理を教えてくれている「みかげ」という青年だった。みかげは王宮に仕える魔法使いだった。
みかげはまっすぐに長い黒い髪に、ゆったりとした魔法使いの服装をして、女性のような柔らかな顔でしずみをうかがった。
「しずみ様、なにかとっておきの秘密に心を奪われておいでのようですね?」
しずみはみかげのことを深く信頼していたが、そう、あの手紙のことは秘密にしておきたかった。それを言い当てられて、しずみはおずおずとうなずいた。
「……海に行きたいんだ」
机の上のノートと本のあいまには、海の底を描いた絵が見えていた。みかげは「ふむふむ」と微笑んだ。この絵は、しずみが描いたのだろう、と。
「しずみ様が行きたいのは、海は海でも、深い海の底ですね?」
しずみは目を見開いた。
「そう! ねぇ、海の底に行く方法はない?」
「じゃあ、呼んでみましょうか」
「呼ぶってなにを?」
みかげは机のわきに立てかけてあった魔法使いの杖を手に取って、掲げてみせた。
「海を、です」
みかげはそう言うと、風に乗るかのようにして、バルコニーのカーテンと窓をさっと開け放った。
そして、眼下の街へ向けて長い杖を振って、歌うように言葉を唱えはじめた。
この世のすべてのいきものの、母なる星のふところよ、
くらき闇夜の光のかなた、とうとき灯りのさいはてに、
たゆたうものよ、今ここへ……。
歌のような言葉がはじまると、杖の先の大気が揺らめいた。かと思うと、杖の先からは、竜巻のようなものがあふれだした。
竜巻は見るまに広がって、泡やしぶきをまきちらしながら、しずみの部屋を、しずみの周りを、ざあっと取りまいた。あっと思ったときには、その竜巻が体にぶつかってきた。嵐の中に放りこまれたような衝撃とともに、しずみの周りに満ちていったのは……。
「水だ!」
そう、その竜巻は、水でできていたのだった。しずみは思わず目を閉じて、竜巻に体がすべて包まれてしまうのを感じる。しかし、水は思いのほか軽やかで、体はなでられているようだった。しずみはそうっと目を開ける。
部屋中が、流れるような大気に揺らいでいた。
「わぁ……」
しずみは、ゆっくりと手を動かし、一歩前に踏み出してみた。
「水の中だ……」
つぶやくと、口のはしから小さな泡があがっていった。でも、まったく苦しくはない。
それから窓の外を見て、しずみは驚きに声をなくした。
バルコニーから見下ろす街は、そのすべてが水の中にたゆたっていた。
街を描くすべての絵の具がぼうっとにじんで、輪郭が太くなったかのようだ。あるいは波打つガラスに透かしたみたいに、薄く青みがかっているところや、赤みがかっているところがある。建物の四角いふちや塔の先端がきらきらとまばゆく輝いていたり、かと思うと柔らかく光っていたりする。
「みんな、みんな水の中だ……」
しずみはゆっくりと水の中を歩いてバルコニーに出た。
みかげの長い髪が、水の流れに広がって揺れていた。みかげはいつものように穏やかに微笑んでいたが、その目はきらめいていた。
「ほら、見てください」
みかげが指さす先を、銀色の魚の群れがななめに泳いでいく。群れは大通りを歩いている人々のほうへ駆けていく。だが人々はそれに気づかない。
「海の底へ来たみたい……!」
「海の底を、連れてきたのですよ」
「でも、みんなは気づかないんだね」
「どうでしょう。街の人たちは、それぞれの世界に夢中ですから……でも、気づこうと思えば気づけるんですよ、いつだって」
空にはまばゆく水面が輝いている。
揺れて見える太陽に、さっと影がさしたかと思うと……。
ひとりの少女が、まっすぐにしずみのもとに泳いできた。
バルコニーの先まで来ると、少女はたたずみ、しずみを見てにっこりと笑った。
「君は……!」
しずみにはその少女が、ひと目でわかった。
それは、人魚の少女だった。
だが、人魚の少女は挨拶するようにその場でくるりとひるがえると、あぶくを散らし、再び水面のほうへ泳ぎ去っていった。そして数人の人魚たちに囲まれて、あっというまに向こうへ、向こうへ、水の続く宙の果てへと小さくなっていった。
やがて、魔法は引いていった。
しずみの手紙を入れた瓶は、なくなっていた。
* * *
かばんを肩からかけて、茶色い帽子をかぶって、今日もしずみは街を歩いている。店の並ぶ路地はにぎやかで、石畳を踏む靴の音は心地よい。
でも、そんな中でふと、しずみは目をつむる。
そしてゆっくりと開く……。
すると見慣れた景色に重なって、あの日のような海の中の街が見える気がするのだ。
第1話 海を呼ぶ おわり