その日の夜遅く。
みかげはひとり、あかりを消した自分の部屋の椅子に座っていた。
窓ぎわに置かれた小さな丸机の上に、果実酒のグラスを二つ置き、少しのあいだ、目をつむる。グラスには月と星の光で水面のような輝きがやどっていた。
そして、両方のグラスにそっと酒を注ぐと、ひとつを持ち上げ、乾杯をする。
グラス同士が触れ合う、かららん、とした爽やかな音がした。
「先生……、最後の曲、聴かせてもらいましたよ」
みかげはそうつぶやくと、果実酒を飲もうとした。
だが、その手をふと止める。
遠くでなにかが鳴っている。
みかげははっとひらめいた。
体を、震えが駆けぬける。
「先生……?」
みかげはグラスを置くと、立ち上がり、耳を澄ませた。
そして、導かれるように部屋の外に出ると、石の階段をあがっていった。
* * *
北の塔の最上階の小部屋。そこには、しずみの月笛が置かれているはずだった。
そう、その月笛を奏でる音がしている。
しずみではないだろう。しずみの音色とは、あまりに違う。今みかげのもとに流れてくる音色は、月下の花のように美しく、妖しげですらあった。
この音色が聴こえているのは、自分だけなのだろうか、と思いながら、みかげは小部屋をのぞきこんで、息をのんだ。
月明かりの部屋で、月笛が、宙に浮いてひとりでに曲を奏でている。
いや……。
目をこらして、みかげはぎょっとした。
影のようなものが、ゆらゆらと揺らめきながら、月笛を吹いている。
「先生……!」
そう、それは、亡くなった音楽家の「先生」のように見えた。
みかげは動揺しながら、入り口に立ち尽くす。
影も、みかげを認めたようだった。ふいに、演奏がやむ。
影は少しだけ……笑った、だろうか……?
「先生、先生、ですよね?」
みかげは小さくつぶやいて、部屋の中に踏みこんだ。
すると、影が再び演奏をはじめた。
「これは……!」
聴いたこともない不気味な音楽だった。
曲に合わせて、部屋全体の暗闇がどくん、と波打ったかと思うと、演奏している影のまわりに黒々とした渦ができはじめた。
「いけない! これは……影の門……!」
みかげはそれを見てはいけない、と悟った。
だが、遅かったかもしれない。
本当は、その演奏を聴くだけでも、いけなかったのかもしれない……。
部屋のあちこちの暗闇が、渦に吸いこまれていく。渦は大きくなっていく。
そして、演奏していた影がひらり、とひるがえって渦の中にのみこまれたかと思うやいなや……「みかげの影」がみかげから離れ、飛び跳ねるようにして渦に向かっていった。
「あっ!」
「影」が体を離れてしまうとは、おおごとだ。
みかげは自分の「影」を追って、渦のほうへ手を伸ばした。
誰もいなくなった小部屋で、しゅるり、と影の門が閉じた。
それから、みかげの姿を見た者はいない。
第5話 最後の交響曲 おわり
第6話 影の国 へ つづく──