光あるところに影はあり。暗き闇の中にも影はあり。
そしてこの世界の「裏側」には、影たちの国があるという言い伝えがありました。
その影たちの国があるおかげで、この世界には魔法があるのだ、とも。
影たちのふしぎな国は、今このときも、世界のすぐ裏側にたたずんでいるというのです──。
* * *
みかげが、いなくなってしまった。
みかげは国王の側近だ。王宮の人たちは、みかげがなにも言わずに姿を消したことに、あわてふためいていた。だが三日目にもなると、皆はみかげのことを忘れてしまったかのようにしずかになった。
王子しずみは、そうではなかった。
みかげは、しずみの教育係だったのだ。誰よりも、国王である父よりもそばにいてくれて、しずみの面倒を見てくれていた。本当なら今日も朝から、みかげが一対一の授業をしてくれているはずだった。
しずみは自分の部屋で、本を開いてぼうっとしていた。
窓の外の雨は、しずみの心のようだった。
本の中身なんて、頭に入ってきはしない。
みかげ、みかげ、とひたすら名前を念じてしまう。
「どこにいるの? 帰ってきてくれるよね? それとも、どこかで帰れなくなってしまっているの?」
言葉の意味が、もう、よくわからなくなってしまうほど、しずみはくりかえしつぶやいていた。頭の中はぐわんぐわんとして、なにもうまく考えられない。ただ、心は不安の怪物に踏み荒らされたようにめちゃくちゃで、切なさに悲鳴をあげていた。
しずみは本を置くと、ベッドに体を投げ出した。
「みかげ……どこに行っちゃったの……」
捨てられた子猫であるかのように身を丸めながら、涙がにじむのもそのままにして。
「誰でもいい、みかげのいるところに連れていって……!」
半分混乱しながらそう叫んで、しずみははっとした。
誰かに、名前を呼ばれた気がしたのだ。
しずみは体を起こしてあたりを見回した。
だが、部屋にはしずみひとりがいるばかりだ。
「今、たしかに……」
その声はどこかで聞いたことがあるような気もしたのだ。なつかしい人に、名前を呼ばれたような。だが、それはみかげの声ではなかった。
「誰だろう……」
雨の音だけが、部屋にこだましていた。
* * *
夕食を終えて、狭いらせん階段をあがっていたしずみは、またはっとして立ち止まった。
誰かに、今、名前を呼ばれた。
「誰? どこにいるの?」
しずみは小さくそう口にした。
卵の黄身のような色の魔法のあかりに照らされた階段には、しずみの他には誰もいない。しずみの影が大きく伸びているばかりだった。
「……そう、こっちだ……しずみ……」
そんな声がして、しずみはびくりとした。
きょろきょろとあたりをうかがう。
しずみの影も、その動きを追った。
だが、しずみがはっとして動きを止めても、影は、方位磁針の針のようになめらかにゆらゆらと左右に揺れていた。
「な……なんで……!」
「……そう、僕だよ、僕……」
間違いない。影から、声がした。
そして影は、わっと伸びて、狭い壁の一面に広がった。
「しずみ、僕だよ……君の影さ……!」
黒々としてゆれる影に今にもおそわれるのではないかと、しずみはぎゅっと目をつぶった。
逃げなくちゃ……、そう思ったが、体は固まったかのように動かない。
だが、しばらくたっても、影がおそってくることはなかった。むしろ、あたたかいものにそっと包まれているような感じがした。しずみはそうっと目を開けた。
目の前の壁で、大きくなった影が、こちらをうかがうように揺れている。
おそろしい、と思う気持ちをなんとかおさえて、しずみは影をまじまじと見た。
黒い影の中に、よく見ればうっすらと、しずみと同じ顔、髪型、服装が見て取れた。
それは「しずみの影」だった。
しずみの影は、挨拶するかのように背を伸ばしたり縮めたりしたかと思うと、しずみと目を合わせてささやいた。
「みかげは、影の国にいるよ」
みかげの名前に、しずみははっとした。
「みかげが? 影の国? それはいったいなに? どこにあるの? それに、どうして?」
質問の嵐にも動じず、影は答えてくれた。
「影の国は、この世界の裏側にある、僕たちの国さ。みかげは、自分の影を追って、影の国に迷い込んでしまったんだ……」
しずみは影に手を伸ばして、服につかみかかりそうな勢いで、必死になって問いかけた。
「どうやったら、みかげのところに行けるの?」
息をつめて窒息してしまいそうなしずみを、影はなだめた。
「落ち着いて。風の子を呼ぶんだ、しずみ」
風の子……!
しずみは目を見開いて「わかった」と答え、影に尋ねた。
「君もいっしょに来てくれるの?」
影の口もとが、にっ、と笑った気がした。
「僕は君の影……生まれたときからずっといっしょだったよ。でも、みかげが影の扉をまたいでから……僕はいくらかの自由を得て、しゃべれるようにもなったんだ」
「そうだったの」
「でも、急ぐんだ、しずみ。今晩のうちに、みかげを助け出すんだ」
「みかげを、助け出す」
しずみはその言葉をくりかえしてつぶやくと、うなずいた。