それでもなんとか、しずみは王宮へつづく橋のたもとに辿りついた。
橋のこちら側はひとっこひとりいなかったが、橋をわたった王宮の入り口に、衛兵の影が揺らいでいるのを見て、しずみはごくりとつばをのんだ。
だが、軽く頭をさげながら横を通り過ぎても、衛兵の影はこちらに気づくそぶりもなかった。
王宮の入り口から続く回廊はがらんとして、いつもよりずっと天井が高く思えた。
日々なにげなく歩いているはずの距離が、今はとても長く感じて、しずみはあせった。もっとも、本当に空間がゆがんでいて、回廊はとてつもなく長かったのかもしれない、なんてことも思いながら。
庭園を横切り、東の塔の三階のみかげの部屋に辿りつき、深呼吸をして扉をあけた。
そしてしずみは「あっ」と声をあげた。
「みかげ?」
みかげがいつもそうしているように、扉に背を向けて、窓の向こうを見ている人影があり、しずみは駆け寄ろうとした。
だが、その人物がみかげのように見えたのは一瞬だった。
それどころか、鮮やかな色あいをした普通の人の姿に見えていたのもつかのまで、近寄ってみると、それはまぎれもなく影の人物なのだった。
「あ……」
しずみはおびえて立ちすくんだ。
影まであと二、三歩というところだった。
するとうしろ姿の影はいきなり伸び縮みしたかと思うと、ぐるりとしずみの目の前に体の正面を回りこませ、ぎょろりとした「目」を向けた。
しずみは固まって声も出せなかった。
影の「顔」はしわくちゃの老人のもので、どこか愉快そうにゆがめられていた。「目」はらんらんと金色に輝いて、しずみをのぞきこんで笑うように細められた。そして「口」が開いたかと思うと、しわがれた声が発せられた。
「おやおや、君がしずみの坊やかい」
「あ、あ……」
たくさんの影とすれ違ってきたが、名前を呼ばれて話しかけられたのははじめてだ。
目の前の影の老人がただものでないことは明らかだった。
だが、しずみのほうは、この老人に覚えはない。
「な、なんで、僕のこと……」
「どうしたんだい、すっかりおびえてしまって。みかげに会わせてあげようか」
「みかげに!」
しずみは思わず叫ぶ。
影の老人はいじわるそうに笑った。
「ほうほう、本当にみかげになついているね。そうでなくちゃね。わしも楽しくなってきたよ。いや、いや、みかげをこの国に招いたのはこのわしでね」
「えっ」
老人の正体はいまだにわからなかったが、その言葉から、老人がみかげの知り合いであるらしいことは伝わってきた。
おそるおそる、しずみは尋ねる。
「どうして、みかげを?」
「愛しているからさ」
「あ、愛して……?」
唐突なその言葉に、しずみはうろたえた。
だが老人は続けた。
「君もみかげを愛しているようだね? そうでなくては、こんなところまで来まい」
その言葉は魔法のようで、しずみの胸をきゅう、とつかんだ。心の中がかきまぜられたかのように、わけがわからなくなる。
影の老人はそれを見透かして、自分のいたずらが成功したのを味わうかのように、何度もうなずいた。
「考えたことがなかったかい。身近な者のことをどれだけ愛していたか。会えなくなってから気づくのでは遅いのだぞ。まぁ説教はやめにしよう。遊びをしないかい、坊や」
「あ、遊び?」
「みかげはわしにとっても愛する者。君にとっても愛する者。ちょっと、力比べの遊びをしようじゃないか」
しずみは返事もできずに老人を見つめた。
老人からは子どものような無邪気な心も感じたが、なにかとんでもないことを言い出すのではないかという感じもして、やはりおそろしかった。
「なぁに、身構えなくていい」
影の老人はしずみの前に、すっと人差し指をさしだした。
「坊や、今からみかげに会わせてあげよう。わしの中に、わしが招き入れたみかげだ。ただし、いつもの、君のよく知っているみかげだとは限らない。それでもそれを本物のみかげだと思うなら、決してそのみかげを放さないこと。なにがあっても。そうすれば、そのみかげを連れ帰らせてあげよう。そういう遊びだよ、いいかい?」
「な、なにを……」
「わかったかい?」
老人はぐるり、と顔をふくろうのように回して、しずみをのぞきこんだ。
しずみはもう驚かなかった。
「わ、わかった」
「では」
影の老人は満足そうにそう言うと、しずみの目の前の人差し指を、ぐるぐるぐる、と何回か回した。
とたんに、影の老人の中に吸い込まれてしまうかのように、目の前が真っ黒になった。
「みかげ……!」
体のすべてがぐわんぐわんとゆがむような感じのする中で、しずみは真っ黒な闇に包まれていった。