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第6話 影の国 〜5〜

星乃すばる


 いつのまにか、冷たい床のようなところに倒れて、意識を失っていたようだった。

 そろそろと体を起こす。

 あたりは真っ暗闇だが、床はガラスでできているかのように半透明で、かすかに虹色がかってぼうっと浮かび上がっていた。その板が、無限の闇に続くピアノの鍵盤であるかのように、ななめ上とななめ下へ階段になって延びていた。

「行かなくちゃ……」

 そうつぶやいてから、自分で「どこへ?」と問い返した。

 その答えはわからない。
 でも、誰かに呼ばれているかのような気持ちだった。

 しずみは少し迷ってから、ガラス板の階段を上へのぼりはじめた。

 こつ、こつと靴が板に当たる音が高く響く。
 そのほかには、時折どこかで、ぴちゃん、と水滴が落ちるような音がこだましていた。

 この段の一番下は水面なのかも、としずみは思った。
 だとしたら、そっちにおりていったほうがよかっただろうか?
 いや、としずみは首を横に振る。しずくが落ちてくるなら、上のほうにもなにかがあるはずだ。

 しばらくのぼり、息が上がってきたころ、しずみは階段の上のほうに誰かがいるような気がして、目を細めた。

 すすり泣きが聞こえてきた。
 やっぱり、誰かがいる。

 しずみは慎重に段をあがっていく。
 三段ほど上に、幼い子どもがいるのがわかった。

 幼い子どもはこちらに背を向け、泣いているようだった。
 肩にかかるおかっぱの黒髪。小さな村の子どもが着るようなつつましい衣服。

 知っている子であるはずがない。
 だが、その子からはなにかひどくなつかしいような感じを受けた。

 しずみは小さく、だがはっきりと声をかけた。

「どうしたの、こんなところで」

 その子がしずみのほうを振り返った。
 泣きはらしたその幼い顔を見て、しずみははっと息をのんだ。

 その子は……みかげに違いなかった。

 しずみは驚き、うろたえるのを隠しながら、小さなみかげに声をかけた。

「迷子になってしまったの?」

 小さなみかげはなにも言わずに、こくり、とうなずいた。
 そして、まじまじとしずみを見つめた。

 しずみも、小さなみかげを見つめながら、感じていた。

 ……このみかげは、本物のみかげだ。

 なぜだかわからないが、その瞳を見つめれば見つめるほど、確信が持てた。

 ……このみかげは、大人のみかげのことはわからないみたいだ。だけど、まったくの別人というわけじゃない。みかげの一部なのかもしれない。
 もしかしたら大人のみかげは、この子どものみかげを探しているかもしれない。
 とにかく、この小さなみかげを、連れて帰らなくては。

 そう思っていると、急に、空間の底のほうから、おおおぅ、と不気味なうなり声のようなものが聞こえてきた。

「な、なに!」

 しずみがとっさに小さなみかげの手を取ったのと、おおおおおぅ、と風のかたまりが下から吹き上げてきたのは同時だった。

 すさまじい突風だった。
 しずみと小さなみかげは人形のように吹き飛ばされて、階段から離され、なにもない空間に投げ出された。

 しずみは風にもてあそばれながらも、小さなみかげの手をたぐりよせ、その体をぎゅっと抱きしめた。
 みかげの不安そうな顔が一瞬だけ見えた。

 どこへ飛ばされるのだろう、と思ううちにも、風は勢いを増し、水滴が降りかかってきた。
 大雨と突風。嵐の中にいるかのようだ。

 ごぉぉぉぉ……ごぉぉぉぉ……。

 吹きぬける風の音に、しずみの心の中で、記憶がかすかに光った。

 この間の嵐のときも、風はこんな音をしていて……。

 そう思ったとたん、かみなりのような閃光があたりを照らし、すさまじい音が響いた。

 ぴしゃぁぁぁぁぁぁぁ────────んっ!

 そして、すぐ近くに木々があるかのような葉ずれの音も聞こえてきた。

 ざざぁぁ、ざざぁぁ。ざざざざぁぁぁ。

 体はもう、どこを飛ばされているのかわからなかった。
 どこまでも、どこまでも、暗闇の空間を、落ちているのか、まきあげられているのか、風に連れられていく。まるで嵐の中を飛ばされる、たんぽぽの綿毛になったかのような気分だった。

 それでも、小さなみかげの体のあたたかさだけが、確かだった。
 そう思ってみかげの顔をのぞきこむと、みかげは口を開いた。

「記憶が流れ出していくよ」

 しずみと目を合わせた小さなみかげは、はっきりとそう言った。

「記憶が?」

 小さなみかげがこくりとうなずいたとたん……。

 嵐の音が急に遠のき、視界の下のほうがきらきらと輝きだした。

 そのきらめきは、たくさんの金色の蝶たちだった。
 蝶たちは舞うようにやってきて、しずみと小さなみかげの周りを通り過ぎていった。

 体がふわりと浮くように感じ、しずみは小さなみかげの体を離して、握った手と手が大きな輪になるようにしながら、金色の蝶たちのあいだに浮かんでいた。

 そのうち、周りがちかちかとしたかと思うと、ずらりと、二日月から三日月、少しずつ太っていく月たちが、闇の中の地平線に並んだ。
 並んだ月はどんどんまばゆさを増し、視界が光であふれてしまうかと思ったとき、今度はわぁわぁと歓声のようなものが聞こえてきた。

 気づけばしずみたちは、手と手を輪っかのように握り合ったまま、どこかの戦場の上空に浮かんでいた。

「これも……僕の記憶だ、僕の体の中の戦場だ……」

 しずみはつぶやいて、戦士たちを見下ろした。

 戦士たちは、勝利をおさめたところであるかのように、万歳をし、声をあげていた。
 その皆の体がきらきらと輝いて、浮き上がったかと思うと。

 それはもう戦士たちではなく、空へ駆けあがる鳥の姿になっていた。
 それはしずみがいつか友達になった、あの光の鳥たちだった。

 光の鳥たちが舞い上がると、戦場であった野原はきらきらと消えていった。
 そして光の鳥たちは、しずみと小さなみかげのあいだを駆けぬけていった。

「いろいろなことがあったね、みかげ……」

 しずみは、手をつないでいるのが大人のみかげであるかのように、そう語りかけていた。
 すると、くすり、というみかげの笑いが聞こえた気がした。

「じゃあ、呼んでみましょうか」

 急になつかしい、大人のみかげの声がした。

 それは、しずみの中で、あの日の記憶がくりかえされているのだった。
 あの日……しずみが深海からの手紙に夢中になっていた、もうずいぶん遠いあの日。

「呼ぶってなにを?」

 あの日のしずみが、まだなにもわからないまま、そう答えている。

「海を、です」

 記憶の中のみかげがその言葉を口にしたとたん……。

 また、突風のようなものがやってきて、しずみと小さなみかげをおそった。
 だがそれは風ではなく、あの日と同じ、水の竜巻だった。

 あたりが深海の光景に包まれていく。銀の魚の群れ、ゆらゆらとたゆたう海草の森。輪郭がにじんだ建物も見えた。
 そうだ、ただの深海じゃない。深海にのまれたあの日の王都だ……。

 だが、水流の激しさに、しずみと小さなみかげは引き裂かれそうになる。

「あ……っ!」

 同時に声をあげたときには、二人の手は離れていた。

 小さなみかげが水の竜巻にのまれていく。

 そのとき、しずみの足もとから、なにか黒々としたものがさっと伸びた。

「影!」

 そう、それは、あのとき語りかけてくれたしずみの影だった。

 影はとっさに、小さなみかげの肩をつかみ、しずみのほうへ力任せに放った。
 しずみは、目を見開いた小さなみかげを、しっかりと胸に抱きとめた。

 ぎゅっと腕に力を込める。
 もう、なにがあっても、離さないように……。

「目を閉じて、流れに身を任せて」

 影がふわりと体にかぶさる感じがして、そんな声が聞こえた。
 しずみはその言葉をそのまま小さなみかげにかけた。

「目を閉じて、みかげ。流れに身を任せるんだ……」

 小さなみかげは少し不安そうにしずみを見つめたあと、ぎゅっと目をつぶった。

 しずみも目をつぶり、体が水の渦の中を流されて行くのを、感じていた……。

 〜6〜へつづく

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