いつのまにか、冷たい床のようなところに倒れて、意識を失っていたようだった。
そろそろと体を起こす。
あたりは真っ暗闇だが、床はガラスでできているかのように半透明で、かすかに虹色がかってぼうっと浮かび上がっていた。その板が、無限の闇に続くピアノの鍵盤であるかのように、ななめ上とななめ下へ階段になって延びていた。
「行かなくちゃ……」
そうつぶやいてから、自分で「どこへ?」と問い返した。
その答えはわからない。
でも、誰かに呼ばれているかのような気持ちだった。
しずみは少し迷ってから、ガラス板の階段を上へのぼりはじめた。
こつ、こつと靴が板に当たる音が高く響く。
そのほかには、時折どこかで、ぴちゃん、と水滴が落ちるような音がこだましていた。
この段の一番下は水面なのかも、としずみは思った。
だとしたら、そっちにおりていったほうがよかっただろうか?
いや、としずみは首を横に振る。しずくが落ちてくるなら、上のほうにもなにかがあるはずだ。
しばらくのぼり、息が上がってきたころ、しずみは階段の上のほうに誰かがいるような気がして、目を細めた。
すすり泣きが聞こえてきた。
やっぱり、誰かがいる。
しずみは慎重に段をあがっていく。
三段ほど上に、幼い子どもがいるのがわかった。
幼い子どもはこちらに背を向け、泣いているようだった。
肩にかかるおかっぱの黒髪。小さな村の子どもが着るようなつつましい衣服。
知っている子であるはずがない。
だが、その子からはなにかひどくなつかしいような感じを受けた。
しずみは小さく、だがはっきりと声をかけた。
「どうしたの、こんなところで」
その子がしずみのほうを振り返った。
泣きはらしたその幼い顔を見て、しずみははっと息をのんだ。
その子は……みかげに違いなかった。
しずみは驚き、うろたえるのを隠しながら、小さなみかげに声をかけた。
「迷子になってしまったの?」
小さなみかげはなにも言わずに、こくり、とうなずいた。
そして、まじまじとしずみを見つめた。
しずみも、小さなみかげを見つめながら、感じていた。
……このみかげは、本物のみかげだ。
なぜだかわからないが、その瞳を見つめれば見つめるほど、確信が持てた。
……このみかげは、大人のみかげのことはわからないみたいだ。だけど、まったくの別人というわけじゃない。みかげの一部なのかもしれない。
もしかしたら大人のみかげは、この子どものみかげを探しているかもしれない。
とにかく、この小さなみかげを、連れて帰らなくては。
そう思っていると、急に、空間の底のほうから、おおおぅ、と不気味なうなり声のようなものが聞こえてきた。
「な、なに!」
しずみがとっさに小さなみかげの手を取ったのと、おおおおおぅ、と風のかたまりが下から吹き上げてきたのは同時だった。
すさまじい突風だった。
しずみと小さなみかげは人形のように吹き飛ばされて、階段から離され、なにもない空間に投げ出された。
しずみは風にもてあそばれながらも、小さなみかげの手をたぐりよせ、その体をぎゅっと抱きしめた。
みかげの不安そうな顔が一瞬だけ見えた。
どこへ飛ばされるのだろう、と思ううちにも、風は勢いを増し、水滴が降りかかってきた。
大雨と突風。嵐の中にいるかのようだ。
ごぉぉぉぉ……ごぉぉぉぉ……。
吹きぬける風の音に、しずみの心の中で、記憶がかすかに光った。
この間の嵐のときも、風はこんな音をしていて……。
そう思ったとたん、かみなりのような閃光があたりを照らし、すさまじい音が響いた。
ぴしゃぁぁぁぁぁぁぁ────────んっ!
そして、すぐ近くに木々があるかのような葉ずれの音も聞こえてきた。
ざざぁぁ、ざざぁぁ。ざざざざぁぁぁ。
体はもう、どこを飛ばされているのかわからなかった。
どこまでも、どこまでも、暗闇の空間を、落ちているのか、まきあげられているのか、風に連れられていく。まるで嵐の中を飛ばされる、たんぽぽの綿毛になったかのような気分だった。
それでも、小さなみかげの体のあたたかさだけが、確かだった。
そう思ってみかげの顔をのぞきこむと、みかげは口を開いた。
「記憶が流れ出していくよ」
しずみと目を合わせた小さなみかげは、はっきりとそう言った。
「記憶が?」
小さなみかげがこくりとうなずいたとたん……。
嵐の音が急に遠のき、視界の下のほうがきらきらと輝きだした。
そのきらめきは、たくさんの金色の蝶たちだった。
蝶たちは舞うようにやってきて、しずみと小さなみかげの周りを通り過ぎていった。
体がふわりと浮くように感じ、しずみは小さなみかげの体を離して、握った手と手が大きな輪になるようにしながら、金色の蝶たちのあいだに浮かんでいた。
そのうち、周りがちかちかとしたかと思うと、ずらりと、二日月から三日月、少しずつ太っていく月たちが、闇の中の地平線に並んだ。
並んだ月はどんどんまばゆさを増し、視界が光であふれてしまうかと思ったとき、今度はわぁわぁと歓声のようなものが聞こえてきた。
気づけばしずみたちは、手と手を輪っかのように握り合ったまま、どこかの戦場の上空に浮かんでいた。
「これも……僕の記憶だ、僕の体の中の戦場だ……」
しずみはつぶやいて、戦士たちを見下ろした。
戦士たちは、勝利をおさめたところであるかのように、万歳をし、声をあげていた。
その皆の体がきらきらと輝いて、浮き上がったかと思うと。
それはもう戦士たちではなく、空へ駆けあがる鳥の姿になっていた。
それはしずみがいつか友達になった、あの光の鳥たちだった。
光の鳥たちが舞い上がると、戦場であった野原はきらきらと消えていった。
そして光の鳥たちは、しずみと小さなみかげのあいだを駆けぬけていった。
「いろいろなことがあったね、みかげ……」
しずみは、手をつないでいるのが大人のみかげであるかのように、そう語りかけていた。
すると、くすり、というみかげの笑いが聞こえた気がした。
「じゃあ、呼んでみましょうか」
急になつかしい、大人のみかげの声がした。
それは、しずみの中で、あの日の記憶がくりかえされているのだった。
あの日……しずみが深海からの手紙に夢中になっていた、もうずいぶん遠いあの日。
「呼ぶってなにを?」
あの日のしずみが、まだなにもわからないまま、そう答えている。
「海を、です」
記憶の中のみかげがその言葉を口にしたとたん……。
また、突風のようなものがやってきて、しずみと小さなみかげをおそった。
だがそれは風ではなく、あの日と同じ、水の竜巻だった。
あたりが深海の光景に包まれていく。銀の魚の群れ、ゆらゆらとたゆたう海草の森。輪郭がにじんだ建物も見えた。
そうだ、ただの深海じゃない。深海にのまれたあの日の王都だ……。
だが、水流の激しさに、しずみと小さなみかげは引き裂かれそうになる。
「あ……っ!」
同時に声をあげたときには、二人の手は離れていた。
小さなみかげが水の竜巻にのまれていく。
そのとき、しずみの足もとから、なにか黒々としたものがさっと伸びた。
「影!」
そう、それは、あのとき語りかけてくれたしずみの影だった。
影はとっさに、小さなみかげの肩をつかみ、しずみのほうへ力任せに放った。
しずみは、目を見開いた小さなみかげを、しっかりと胸に抱きとめた。
ぎゅっと腕に力を込める。
もう、なにがあっても、離さないように……。
「目を閉じて、流れに身を任せて」
影がふわりと体にかぶさる感じがして、そんな声が聞こえた。
しずみはその言葉をそのまま小さなみかげにかけた。
「目を閉じて、みかげ。流れに身を任せるんだ……」
小さなみかげは少し不安そうにしずみを見つめたあと、ぎゅっと目をつぶった。
しずみも目をつぶり、体が水の渦の中を流されて行くのを、感じていた……。